美野里ハイタウンの歴史(1)
誕生〜活気あふれる団地生活〜荒廃の兆し
〜1976年
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■もともとは雑木林
開発前の「美野里ハイタウン」、 この場所はもともと雑木林で、南西に向かって下った地形なので、そちら側から見ると小山のようでした。 イノシシが出たという話も聞きました。昔は犬の散歩によく来ていた、という近所の人によると、人が入れないような山ではなく、木も小さかたそうです。また、よそからゴミを捨てに来ていたようだ、とも聞きました。 土地の所有者の秋谷さんは、もともとこのあたり一帯(和名ヶ谷)の古い地主さんで、農業を営んでいたそうです。市立図書館には、「秋谷家文書」という古文書が収蔵されています。 ■あっというまの建設工事? 隣接する集合住宅の方に聞いたところによると、朝、出勤するときに、建設資材を運び入れているなあ、と思ったら、夕方、帰宅したときにはだいぶ建物ができあがっていた、とのこと。また、別の近隣の方によると、箱のようなものを持ってきて、ぽんぽんぽん、と積み上げてあっという間にできあがった、といいます。その様子は、入居募集パンフレットに掲載されている写真からもわかります。 |
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1977年
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■入居開始 最初に3・4・5号棟(間取りBタイプ)が完成したそうです。現地内覧会では1号棟のお部屋(間取りAタイプ)を見せてくれた、というお話も聞きました。 入居募集は、日本橋高島屋にあった日本住宅公団の窓口でも行われていたようです。公団で探したので、公団住宅だと思っていた、という住人の方もいらっしゃいました。 1976年9月 第一次260戸の申込受付スタート 1977年1月 第二次244戸申込受付スタート 3月 第一次入居 6月 第二次入居
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1980年代
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■子ども会活動
80年代後半が最も活発だったようです。そのころ会員数は100名に届く規模でし た。月に1回のお掃除のほか、バザーや盆踊り、芋掘り大会、クリスマス会など、毎月のように行事がありました。ソフトボール、ドッジボールのチームもあり、東部地 区子ども会のスポーツ大会で優勝したこともあります。子ども会の役員はお母さんたちが、スポーツのコーチはお父さんたちが買って出ていました。当時、役員を務めたお母さんのひとりは「大変だったけど、楽しかった、いい思い出です」と、当時を語ってくれました。その後、企業の社宅が次々と撤退して子どもが少なくなり、90年ごろには、子ども会は解散されました。 |
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1990年代
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■子どもの声があふれ、緑豊かな団地に 1993年ごろに入居した住人によると、子どもがたくさんいて、にぎやかに遊んでいた、子どもの声、ボール遊びの音が聞こえた、といいます。当時は駐車場も満杯で、外に借りている人もいたそうです。建設当初に植えられた木々が大きく育ち、緑が豊かで、子どもの遊び場や自然環境に恵まれた団地になっていました。 ■あっさりとした近所づきあい 大家さんが自治会を禁止していたため、住人のつきあいは子ども会を通じたものが中心でした。子ども会がなくなったあとは、同じ階段を利用する住人同士があいさつをする程度で、あまりつきあいはなかったといいます。子ども同士が同級生になって初めて、同じ団地に住んでいたことがわかった、ということもよくあったようです。 |
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〜2000年ごろ
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■社宅の撤退、空き部屋の増加、ゴミの不法投棄 三井生命、神戸製鋼、川崎製鉄、九州石油、三菱、東芝などの社宅が、次々と引き上げて行きました。そのあと新しい入居者が入らなかった部屋や棟もあり、徐々に空き部屋が増えていきました。 子ども会がなくなって定期的な掃除をしなくなり、また、大家さんによる樹木の剪定や雑草の刈り取りといったメンテナンス、ゴミ集積所の掃除などが、数年前から行われなくなって、次第に団地の中は荒れていきました。粗大ゴミの不法投棄も目立ち始めました。 美野里ハイタウンの歴史(2)へ |
※ 美野里ハイタウンの歴史(1)は、住人のみなさんやご近所の方からの聞き取りをもとに構成しました(文責:小川直美)